TRION NOTEブログ

2022-10-21
読みもの

【トライオンで働くヒト】トライベトを支える中村さん〈前編〉

【トライオンで働くヒト】トライベトを支える中村さん〈前編〉

31歳でトライオンに中途入社後、2011年から約11年にわたりベトナムの自社工場トライベトに駐在している中村さん。

親しみやすい人柄と持ち前のリーダーシップにより、General Directorとして現地の“ヒト”に寄り添うマネージメントスタイルで900人からなる工場を率いています。そして職場環境改善と人の教育から取り組み生産性と品質の向上を成し遂げてきました。

まだ日本人に馴染みのなかったベトナム南部のカントーで、ローカルに根付く日系企業としてカントー市政府からも認知され、ベトナムでのものづくりを支えている中村さんにトライオンとの縁や今までのこと、働く上で大事にしている思いなどを語ってもらいました。前後編にわたってお伝えします。


伸び伸びと過ごした少年時代

小学生の頃から遊びで野球を始めて、本格的には地元の中学校で軟式野球部に入り、高校では硬式野球部に所属。まぁまぁ一生懸命野球は頑張りました(笑)。

元々野球の盛んな大阪出身で阪急沿線に住んでいたこともあり、阪急ブレーブスの大ファンで「阪急ブレーブスこども会」に入り、小学校4年生ぐらいからは一人で電車に乗って今は無き西宮球場に足繁く通っていました。

当時の西宮阪急スタジアムとマルーンカラーの車体で有名な阪急電車

試合後の選手の出待ちが楽しみで、いろんな選手のサインをいただきました。その当時は今ほどファンサービスという概念がなく、悪ガキイメージの小学生男児はプロ野球選手から邪険に扱われることも多々ありまして…(笑)。特にパリーグの在阪球団はなおさらでした(笑)。しかしながら、当時の阪急には山田久志さんという後に名球会入りされる大投手がおられて、しつこくサインをねだるクソガキ小学生にも優しくサインして下さりました。

当時の宝物サイン色紙の写真を、実家にいる母に依頼。阪急ブレーブス往年の名選手、左から石嶺和彦、星野伸之、松永浩美のサイン色紙です。(マニアック過ぎますね…。残念ながら山田さんのサインは大事にしまいすぎて母が見つけられず(笑))

その山田さんとは、ベトナム赴任後に再会したんです。僕が勝手に再会と思ってるだけなんですけど(笑)。

ベトナムに日越野球協会というのがあり、名球会とのコラボレーションで野球教室を開催していて、それにトライオンも協賛させてもらったりしています。その名球会メンバーに山田さんがおられ、17番のユニフォームに袖を通し、ベトナムの子どもたちに熱心に野球を教えて下さりました。

野球教室の様子

その打ち上げで山田さんの正面の席に座らせて頂き、色々お話させてもらいました。その際、小学生時代によくモノマネしていたアンダースローのピッチングフォームを、30年越しにご本人の目の前でさせて頂き感無量でした。その当時も今もすごく紳士的な方で、微笑んで拍手を下さったのが印象的でした。当時の背番号とお名前を刺繍した特注トライオンバッグをプレゼントさせて頂き、現在も使用して下さっておられます。

夢を見つけた学生時代

自転車で通えるからと地元の公立高校に進学し、野球には一生懸命でした。その影響もあってか勉強はあまりせずで…(笑)。厳格で苦労人の父親から進路について初めて真剣に話をされてハッとなりましたね。

そんな時、「英語力がなくても、アメリカの大学に行ける♪」みたいな広告が新聞に載っていて、父親がちらっとこんなのもあるな~と話してくれて。これだ!という無謀な思い込みで進路を決め、高校を卒業後すぐに渡米しました。自転車で通えていた高校から飛行機で10時間のアメリカを選択するとは、振り返るとよくそこまで思い切れたなと…。やっぱりそこは背中を押してくれた父親に感謝しています。

結局、それは大学付属の英語学校だったんですけど、TOEFLのこととか何も知らず英語力もないまま渡米して結局そこに1年間通い、TOEFLスコアをとって晴れてアメリカの大学生になりました。

アイダホ州の片田舎の町ルイストンにあるルイスクラーク州立大学へ入学しました。そこでの青春の日々は何物にも代えがたい思い出ですね。せっかくならアメリカでしか学べない学部をと考え、スポーツマネジメントで有名なワシントン州立大学(以下WSU)へ編入しました。

きっかけになったのは、アマチュアながらプロにも匹敵する人気のカレッジスポーツ、アメフトの試合で会場が7万人の観客で埋まってるのを見た時です。甲子園でプロ野球の阪神巨人戦が、5万5000人ですよ。プロでもないのにカレッジカラーで7万人の観客席が埋まってる。それに魅せられスポーツビジネスの道に行きたいと思いました。

学生時代に働いていた校内にあるアメフト専用のスタジアム

WSUはPacific10(現在はPacific12)というNCAAのリーグに所属しており、UCLA, Stanford, UC Berkleyなど早々たる名門大学が揃い、選手もNBAやMLBなどプロ予備軍といっても過言ではない集まりでした。

その対抗戦の準備や運営、学生アスリートたちのマネージメントとして大学構内で働かせてもらったり、他にも球団経営学、スポーツマーケティング、スポーツでの地方創生、群衆をどうコントロールするか、コーチングなど幅広く学びました。

海外での経験を生かして就職

その当時はまだ、スポーツマネジメントはマイナーで、球団経営の職に就くには狭き門でした。プロチームのGMをやりたかったんですが、それが今ではベースボールグラブの工場のGMになっています(笑)。

24,5歳で日本に帰国し、実家に住んで色々なスポーツイベントのアルバイトをしながら、スポーツ関連の仕事に就きたくて募集していないところに応募するという就職活動をしていました。中々上手くいかず、両親が「この子は就職できないのかしら」と心配するようになり、一旦球団経営をするGMは諦めて社会人として就職をしようと思いました。

貿易を勉強できて即戦力で海外に出してしてくれる会社を探して、機械メーカーに入社しました。有難かったですね。すぐにタイやベトナム、ニューヨークや中米のドミニカにも出張で3カ月滞在したりと、機嫌よく働いてました。そのお陰で結婚も出来て、子供も産まれて、充実していました。

トライオンとの出会い

でも、30歳くらいにふと思ったのが「スポーツビジネスどこいったん?」という思い。年齢的にも最後のチャンスだと思い、転職を決意しました。そんな時、偶然検索したリクナビにトライオンの求人が掲載されてました。

「メジャーリーガーから少年用まで野球グローブを作るメーカーの企画営業、1名募集。」

これだ!とピンと来て応募。実際これ以外の転職活動はしておらず、トライオン1社を受けただけです。妻には採用が決まってから報告しました(笑)。

入社してしばらくは、大阪本社で国内ブランドの営業企画を担当していました。その後、社長がチャンスを与えてくれて、「海外向けラインのアウトプットと品質を上げる」という目的のもと、ベトナムに赴任しました。

トライオン入社後のアメリカ出張時、Baltimoreのスタジアムにて

学生時代の思い切った留学からトライオン入社まで、さまざまな経験をされてきた中村さん。

後編では、ベトナム赴任後の働き方や働く上で大切にしていること、今後の夢などもたっぷりと語ってもらいます。

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