TRION NOTEブログ

2021-11-19
読みもの

【トライオンで働くヒト】公私共に野球愛に生きる、片山さん〈前編〉

【トライオンで働くヒト】公私共に野球愛に生きる、片山さん〈前編〉

バッグメーカーであり、野球グラブメーカーでもあるトライオンでは、大阪本社、フィリピン・ベトナム両工場を合わせ約30人の日本人が働いています。

工場で勤務するフィリピン人、ベトナム人も合わせるとグループの従業員は総勢約1,800人。多様でユニークな働く人たちの手によって、私たちの製品は作られています。

そんな普段は表に出ることのない「トライオンで働くヒト」にスポットを当て、シリーズで魅力をお届けしていきます。

勤続17年のうち、フィリピンの自社工場トライフィルでの駐在が15年目を迎えた片山さん。

フレンドリーな人柄と生粋の野球好きが高じてさまざまな縁をつなぎ、アメリカ大手ブランドの野球グラブ企画開発を担当するかたわら、休日は選手、コーチ、チームオーナーとしてマルチに活躍しています。

公私ともに野球愛に生きる片山さんに、トライオンとの縁やフィリピンでの活動について語ってもらいました。前後編にわたってお伝えします。


野球マニアな少年時代

親とテレビでよくプロ野球を観ていたからか、いつのまにか野球が好きになっていました。小学低学年の頃から、新聞のスポーツ欄にあるプロ野球の順位表を切り抜きしたり、選手名鑑を愛読するなど、ちょっとマニアックな少年やったと思います。

小学3年生の頃、地元の少年野球チームに入りました。中学、高校、大学も野球部に所属し、小中高ではチームの中で一番声と態度と夢が大きかったためキャプテンを務めました(笑)。

プロ野球選手になりたいという大きな夢を諦めきれず、大学4年の時に読売ジャイアンツのプロテストを受けましたが、そこで夢を絶たれました。大学卒業後は、関西の食品メーカーに勤めながら、大阪の草野球チームでプレーを楽しんでいました。まさかその10数年後、フィリピンでセミプロ野球選手になり、夢を叶えられるとは全く想像していませんでした。

「世界一のグラブメーカー」が憧れの選手のグラブを生産

特に転職活動をしていたわけではないんです。たまたま、アメフト日本一を決めるライスボウルの記事が読みたくて買った、2005年1月4日の朝日新聞にトライオンの求人広告が載っていました。

「野球グラブ専門メーカー」という見出しに興味をそそられ、応募。面接の際に、社長から「世界一のグラブメーカー」という言葉を聞き、「なんでも一番はすごい」と思ったことと、好きなメジャーリーガーのグラブを作っているという話を聞いた瞬間、心の中の針が一気に振り切れ、「入社したい!」と思いました。

トライオン大阪本社にて

入社後は4年間日本の大手スポーツブランドを担当する部署で修行し、5年目にアメリカ向けの仕事をするチャンスをもらい、現在に至ります。

グラブの企画・開発に加え、主な材料である革の購買、アメリカ市場商品の要であるカスタムオーダー生産ラインの管理も担当しています。

プロ選手用に開発したグラブはすべて自分で検品しますが、今でもプロ用グラブを見てドキドキするのは僕だけと違うかな(笑)。今思えば、やりたいことが全て叶っていて、本当にラッキーだなと感じます。

フィリピン野球との出会い―人生の転機

フィリピン駐在になり、MLBに関わる仕事を任せてもらえるようにはなりましたが、ふつふつとした野球がしたい、教えたいという気持ちはずっと持っていました。

'08 ボホール島にて

最初の5年間はシャイで行動を起こせずにいましたが、2012年に人生が変わりました。当時あったセミプロリーグ「ベースボール・フィリピン」で三連覇していた強豪チーム、マニラ・シャークスに、野球を教えたいと連絡したところ、日本人で野球経験者であればトライアウトを受けたらどうかと勧められました。

当時すでに34歳。この機会を逃したら選手にはなれないと思い切って受けたところ、マニラ・シャークスからドラフト2位で指名され、セミプロ野球選手になる夢を叶えることができました。

一時は完全プロ化の話もあったこのリーグは、僕が入った2012年シーズン末をもって終了することになり、本当の意味で最後のチャンスだったわけです。つくづくラッキーだったなと。これが大きな転機となり、フィリピン野球にかかわるようになります。

つながる縁、広がる活動

セミプロリーグは1年で終了しましたが、その後クラブチームに所属しプレーしていました。チームで日本人は僕一人。たまたま試合を見に来ていたタブロイド紙の記者と仲良くなり、「働きながら野球をしている変わった日本人がいる」と折に触れて記事に取り上げてくれました。

新聞やTVなどから取材を受けました

また、その時の対戦相手の監督がフィリピン代表チームの監督で、たまたま僕がその試合で活躍したために、「ぜひ代表チームを教えてほしい」と頼まれ、2012~17年は代表チームの指導をさせてもらいました。

17年からは正式なコーチに就任し、U12からフル代表までのチームをみています。

また、フィリピンの東大にあたる、フィリピン大学の野球部とも監督を通じて縁があり、教えることに。さらに、2019年にはフィリピン野球協会のアドバイザーに就任し、野球発展に少しでも貢献できるよう活動を行っています。

代表選手にもかかわらず、大学卒業後に野球をする機会がなくなっていた選手の受け皿として、ついには「KBAスターズ」という自分のチームを立ち上げ、選手兼監督兼オーナーとして若い選手と一緒に汗をかいています。

KBAスターズの選手と

野球をきっかけにつながった縁で、フィリピンの有名俳優や、フィリピン史上初の五輪金メダルを獲得した女子重量挙げの選手とも親しくなり、交友関係が広がっています。


野球愛が原動力となった片山さんの活動は、驚くほど多くの出会いを生み、さまざまな枠を飛び越え、活躍の場を広げています。

後編では、トライオンでの様子やさらなる今後の夢など、たっぷりと語ってもらいます。

>後編はこちら